まず「楷」より始めよ
- 智史 廣瀬
- 2 日前
- 読了時間: 2分

「楷書」という言葉が気になっていました。
前にも書いたとおり、物事には「真・行・草」があります。
屋根、床の間。刀の棟。倶利伽羅龍の彫り物。
僕が知らないだけで世の中の色々な物に、沢山の「真・行・草」があるのです。
それなのに何故、書は「楷・行・草」なのか。
一般人に一番身近と思われる「行・草」があるのに、「楷」ってなんだ?
気になってはいましたが、調べていませんでした。こうやって取りこぼしていくのですよね。人生って。
今日たまたま「書に法あり」という本を呼んでいて、その謎が解けました。その部分を抜き出します。
「現在、楷書といわれれば、すぐに唐の欧陽詢、褚遂良、柳公権、顔真卿等のことを思い浮かべるだろう。しかし、古人が楷書に見た概念は現代人と同じではない。楷書が円熟した魏晋時代、「楷書」ではなく、「正所」あるいは「真書」と呼ばれていた。 - 中略 - 後世の人々はこれが模範となるからこそ「楷(手本)」とし「楷書」と呼ぶようになった。つまり、手本となる書法という意である。」
思わず手を打ちました。やはり文字にも「真・行・草」はあったんです。
文章は続きます。
「文字が標準化され、基準となるレベルまで発展したのでこれ以上変化刺せる必要がなくなった。もちろん、唐の人々ほど正書の技法を多種多様に徹底的に発揮できた者は誰一人いない。」
さて、それでは日本刀における「楷・行・草」はあるのでしょうか。
おそらくある。友成や安綱、包平といった刀工達は書における魏晋時代の「楷」に当たるでしょう。
そして、鎌倉時代に華開いた粟田口、一文字、来、長船などの刀工達はまさに唐代の「楷」。
刀を数々、観れば観るほど、彼ら程多種多様で、自由で、しかも掟に沿った作品はそれ以降現れないのです。
新刀は観やすい。その良さが解りやすい。しかし飽きるのも早い。
この世界で年月を過ごせば過ごす程、お金を出して買おうと思う新刀は数が減っていきます。それは「刀の楷」をどんどん観ているから。
お金の無駄遣いをしなくて済みますね。
皆さんも是非、「楷」を沢山観て目を肥やしてください。
故事成語をちょっともじって、”まず「楷」より始めよ”とでも申しましょうか。
…といいつつ、今狙っている刀はパッツパツの新刀だったりします…。
ああ、数寄者の悲しさよ。
まぁ、書にしたって、この前サザビーズに出てた高劍父の行書四言聯がメチャクチャ欲しくてたまらなかったんですけどね。
今観たら落札価格、バカみたいに安い。Estimateメチャクチャ下回ってるじゃないの…チクショー!
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